アーサー・ウィラード・プライアー Artur Pryor(1870-1942)
1870年9月22日
ミズーリ州セント・ジョセフのライセアム劇場の2階で生まれる。
父は町のバンドマスター(1869年に結成したプライアー軍楽隊、 シルヴァー・コルネット・バンドと呼ばれていた頃もある)で、 一家はこの劇場に住み込んでいた。
父はサミュエル・D、母はメアリー。
兄のウォルター・D・プライアーは後にコルネット奏者として有名になり、ハーバート・クラークと 共演してレコーディングを残している。
弟のサミュエル・O・プライアーはドラムで有名になり、カンザス・シティーの数々の劇場オーケストラで演奏している。
二人は後にアーサーの率いるプライアー・バンドで演奏するようになる。
6歳の頃
ピアノを町に住んでいたプラート教授に学ぶ。バンドの楽器については父から学んだ。 そして彼は、ヴァイオリン、コルネット、アルト・ホルン、バス・ヴィオール、ヴァルヴ・トロンボーンを学んでいった。
11歳
父親のバンドとともにシカゴに行き、ヴァルヴ・トロンボーンを演奏し、「ミズーリの驚異の少年」と呼ばれる。
その後、父のバンドの一員となり、楽器をマスターしようと夢中になって、楽器を10時間練習していたとも言われる。
15歳の頃
町の定期市などで演奏するようになり有名になっている。
1880−90年
リバティー・バンドのメンバー。
1889年
アレッサンドロ・リベラーティーが新しく結成したバンドとともにカンザス・シティーに立ち寄る。 このときアーサーのうわさを聞きセント・ジョセフまでやってきてソロイスト契約を結ぶ。この年の夏、西部の各週へとツアーに出かけるが、 彼が今日知られている独奏曲を書き始めたのはこのころで、それまでトロンボーンには不可能といわれていたことをいろいろと試している。
1890年
スタンレー歌劇場オーケストラのメンバー。
セント・ルイスで父親のバンドのコンサートに出演。このコンサートを聴いたギルモア・バンドのメンバーがリーダーに報告し、 ギルモア・バンドに誘われるが、なぜかこの誘いを断り、デンヴァーのスタンレー・オペラ・カンパニーの監督に就任している。
1892年
ジョン・フィリップ・スーザが新しく結成したバンドがニュージャージー州のプレインフィールドにやってくる。 ギルモア・バンドを離れてバンドに加わった、トム・シャンナハンが、プライアーの実力をスーザに報告し、プライアーはオーディションを受けることになる。 そのオーディションではウォーム・アップの時から実力を見せつけ、トロンボーン奏者のマーク・ライオンズとグレンブリッジズは 「トロンボーンからこんな音がでるなんて、これまで聞いたことがない。それにしても速い。」と後に回想している。 ライオンズは最初のリハーサルで、当時首席トロンボーン奏者であったフランク・ホルトンが、難しくて吹けないパッセージをプライアーに演奏するように求め た、プライアーが演奏した後、スーザが「フランク、良い演奏だ。初めてちゃんと演奏できたね。」と言うと、フランクは立ち上がって。「スーザさん、演奏したのは 私ではなくてこの若者、プライアー君ですよ。」と答えたという。ホルトンはすぐにでも首席の座をプライアーに譲ろうとするが、スーザの希望でしばらくの間渋々とどまる。
1893年
ホルトンがバンドを去りプライアーが首席奏者となる。
ホルトンは会社を作り、そこでトロンボーンを開発するが、プライアーは後にそれを推奨するようになった。
1895−1903年
プライアーは副指揮者兼トロンボーン・ソロイストとして各地を回った。ヨーロッパ・ツアーも3回行っている。
1903年
ロシア滞在中、スーザとの間で給料問題が生じ、帰国後バンドを去り、自分のバンドを結成する。
このときユーフォニアム奏者の、シモーネ・マンティアも同行した。
バンドは最初「アメリカン・バンド」と名乗った。
当時人気者であり、偉大なアーティストであった二人が同時に抜けたことは、スーザ・バンドの最大の損失といわれた。
1903年11月15日
ニューヨークのマジェスティック劇場で、初コンサートを開く。この後6年間で6回の全米ツアーを行い。 スーザ・バンドに次ぐ存在にまで引き上げた。
1933年
プライアーは引退しニュージャージー州ロング・ブランチ近郊のドリフトウッドと名付けられた農場に落ち着く。
たまに、昔のプライアー・バンドのメンバーとアズベリーパークで演奏することもあった。
1942年6月17日
コンサートのリハーサル中に脳出血の発作で倒れ、翌朝亡くなる。
コンサートではプライアーの最後の作品「星条旗をはためかそう」がアーサー・ジュニアの指揮によって演奏された。

プライアーはすばらしい演奏技術を持っていた、例えば重音奏法である。 また6と1/4インチしかなかった、小さなベルの楽器で 易々とペダルトーン演奏したり、電光石火のスライドテクニックを見せたりしていた。 しかし、彼はその独特のヴィブラートを用いた バラードやオペラ・アリアを好んでいた。
また、プライアーはその優れた演奏技術だけではなく、作編曲の分野においても多彩な能力を発揮した。
「グッド・フィール」と呼ばれるジャズのスタイルを開発し、多くの曲をこのスタイルで書いている。また、初期のレコーディングのための、 旋律がより良く聞こえる編曲や、大学でのバンド・クリニック、「マーチの演奏法」などの記事を書いたりといった、非常に多くの活躍を行った。
スーザ・バンドに在籍中ハーバート・L・クラークに独奏曲を書くように勧めたのも彼らしい。
指揮者としての活躍もすばらしいものがあった。録音を「缶詰音楽」として嫌ったスーザに変わって多くの録音において指揮を行っている。 それはスーザ・バンドの録音の75%に及ぶと考えられている。また、指揮で忙しいときは「少なくとも1日2時間の練習」が必要と考えていた彼に変わって、 シモーネ・マンティアがトロンボーンを吹くこともあった。
精力的に録音を行ったおかげか、最近では古い録音を、CDとして聞くことができる。音質は良くないものの、20世紀初頭に現れた多くの偉大なアーティストの録音が 聞けるというのはすばらしいことだと思います(できればSimone MantiaのCDも出てくれないかなあ)。
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